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リヨンから列車に乗って、ロワンヌへ。
駅を出ると目の前に、トロワグロはある。
中に入ると雰囲気は昔のままだ。
とても懐かしい気持ちで待っていると、ピエール・トロワグロが来てくれた。

(ロリジンのサンプル本をみて)
この頃の料理は、盛りが多いね。今のものとは、全然違うね。
息子のクロードとミシェルは、タイユヴァンで見習いをしたんだ。
―日本のマキシムのオープンで来日されましたよね。
日本はとてもエキゾチックな国だったよ。
浅野さんとは、
マキシムで4ヶ月働いたんだ。彼は今でもクリスマスには、ソックスを贈ってくれるよ。
(私が、浅野氏は今、
日本エスコフィエ協会の会長だというと、彼は「最もふさわしい人だね」と答えた)
マキシムのオープンで来日したとき、スフレは日本の湿度が多くて膨らまなかったね。
だから、前の晩にイーストを入れたりして工夫したもんだよ。
―3ツ星を獲る事と、長くそれを維持する事では、どちらが難しいですか。
3ツ星を維持するには、良く仕事をして注意深くお客様の味の変化を見極める事が大切だ。
良い仕事と情熱を持つことだ。仕事は好きじゃないと続かない。
55年間、一日に12~18時間働いた。お客様とのコミュニケーションがあったから、続けられたと思っている。
―分子料理については、
一時はやっていたが、今は元に戻ってきている。
分子料理をやっている人は、それ程多くないな。
好奇心の時代は終わり、元に戻ってきているんじゃないかな。
―
フェルナン・ポワンについて教えてください。
ポワンは特別な人で、料理に自由を与えた人だ。
それまで、全ての料理人がエスコフィエのレシピどおりにやっていた。
それを根本から変えたのが、
フェルナン・ポワンだった。
彼は私の人生に、大きな影響を与えてくれた人だ。寛大な人だった。
彼が現れると、皆、話を止めた。それは、神様が現れたようなものだった。
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フランスの中でもっとも充実していた3ツ星レストランのひとつであったトロワグロを育てたのは、
トロワグロ兄弟の父親、ジャン・バチスト・トロワグロであった。
彼は、ブルゴーニュで営んでいたカフェをたたみ、1930年にロワンヌ駅前のホテル・プラターヌを買い取り店を始めた。
ジャンが4歳、ピエールが2歳のとき、夫妻は子供たちが伸び伸び遊べる地として、この地を選んだのだった。
ジャン・バチスト、彼は料理人ではなかった。
妻が全ての料理を作っていた。
彼の仕事は、サーヴィスや
ワイン選びが中心であったが、一方鋭い味覚と料理感覚とを持った人でもあった。
いつも「料理とは素晴らしい自然の恵みである。地の糧を反映したハーモニーでなければならない」と語っていた。
料理に関して優れた直観力を持つ彼のアイディアは、後のトロワグロ兄弟の料理に多大な影響を与えている。
また、トロワグロでは客まで皿に盛り付けるゲリドンサーヴィスをしなかった。
料理は盛り付けに至るまでが料理人の責任者だというのが、彼の持論だからだ。
意味のない演出を避け、本当に意味のあるものだけを深く追求する事を教え、あくまで素材そのものの味を活かした的確な料理、それを目指した。
そしてトロワグロから大きな影響を受けた料理人達がいる。
「ラ・コート・サンジャック」のジャン・ミシェル・ローラン、「ラ・コート・ドール」のベルナール・ロワゾー、「ジラルデ」のフレディー・ジラルデである。
これを見るだけでも、トロワグロが現代
フランス料理において果たした役割は、あまりにも大きい事がわかるだろう。
今は、ピエール・トロワグロの息子ミシェル・トロワグロが
オーナーシェフとなり、この輝かしい美食の館で「トロワグロ」の料理を作り続けている。

*写真中央がジャン・バチスト・トロワグロ、右がジャン・トロワグロ、左がピエール・トロワグロ。
トロワグロ」それは、私の中で「最高の味」と同じ意味を持っている。
その言葉を口にする時、もう話さないではいなられない。極上の味がよみがえってくるのだ。
リヨンから専用バスで約1時間30分。
ロワンヌという田舎の駅に「トロワグロ」はあった。
それは3ツ星の美食の館という雰囲気ではなかった。肩の凝らない落ち着いた駅前のホテルであった。
ホテルに着き、一息ついた後、トロワグロのキッチンを見学させてもらった。
「未来のキッチン」と呼ばれているそれは、我々の想像をはるかに超えたものであった。

ぴかぴかに磨かれたキッチンは3ツ星レストランでは当たり前だが、それだけではない。
一方の壁が、開放的なガラス窓で外の緑が美しい。
そして、キッチンのテーマカラーはワインレッドである。
毎日モップで天井までも掃除するとの事。キッチンの火も電気が多用されている。
料理人であれば、この快適なキッチンで仕事をすれば、どれ程気持ちよく仕事に打ち込めるかは明白である。
日本のキッチンの発想と、まるで違う未来のキッチンの姿がそこにはあった。
皆、カルチャーショックで声も出ない。
兄のジャンは「ソースの神様」と呼ばれていた。
その物静かなまなざしと顔半分を覆っているグレーの豊かなひげとで、まるで哲学者の様な雰囲気を醸し出している。
弟ピエールは「肉の名人」として知られている。
丸々と肥った温厚な料理人で、温かく我々を包みこんでくれる。

夜になり、スーツに着替えて1回のレストランの席に着く。
やはり3ツ星レストランの緊張感はない。ジャンパーで食べに来ている人もいる。
ドアが開いて、花売りが入ってきた。あまりにも思いがけない情景に戸惑っていると、次には新聞売りも入ってくる。
ここは、まさに駅前ホテルなのである。
トロワグロで驚かされた事が、もうひとつある。
赤ワインが冷やされて出てきた事だ。
赤ワインは常温で楽しむという我々の常識は見事に覆された。
これは、彼らの父、ジャン・バチスト・トロワグロが実行していたもので、当時他の3ツ星レストランでは行われていなかった。
古いヴィンテージのものは別だが、トロワグロでは、赤ワインは大体12~14℃でサーヴィスされていた。
食事中のワインとしては、とても飲みやすかった事を覚えている。