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リヨンからミヨネまでは20キロ足らず。
アラン・シャペルの父親がリヨンの1ツ星レストラン「ラ・メール・シャルル」
を買い取った時から、アラン・シャペルは始まる。
この館はユトリロが描いた事でも有名である。
そして、彼は15歳で国立大学入学資格を得るほど、勉強好きであったと言われている。
彼は、自材料をじっと眺め、発送したものを調理する。
料理すること自体は簡単だと言い切る。
仕入れや、経理などはスタッフに任せる。
それは、自分がただ本当に旨いものだけを作る事に専念するためだ。

父親から常々言われていた事は
雨の日に来たお客様の気持ちを、晴れやかにするような料理作り
これを心がけなければならないと。
そして、彼は
「オリンピック選手は、4年に1度金メダルを取り、成し遂げるが、
私は日に2度づつ、世界チャンピオンで在り続けなければならない。」と
これは全てのオーナシェフに課せられた宿命であろう。
かれは仕事に対して完全主義者であり、また凝り性でもあった。
アラン・シャペルのキッチンは静けさに満ちていたという。
そして、熱い料理が、そのまま熱くテーブルに届けられるという事では
最も優れたレストランであったといわれている。
そして席に着くと、そのお皿にまず目がいく。
なんと八角形なのだ。
今でこそ、様々な形の皿がフランスでは用いられているが、当時は例外なく円形であった。
さらに、お皿のふちに絵柄はなく、中心に花が描かれてあった。
これも通常の感覚でいえば、間逆のデザインであった。
(*本書には、皿の写真も掲載予定です。)
↓アラン・シャペルのメニューはまるでポエムの様だ。

*各レストランのメニューも見開き1ページづつ掲載予定。
もちろん、メニュー内容も読める大きさです。
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